仙台の人と街を応援する企業家組合


by crosby2
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Xenday & IDATE  1600年から現在へ 捨てる神あれば拾う神在

いにしえの時代 エウロパの諸国では日本を IAPON` 仙台を Xenday" と表記していたようである。

故に今日よりは Sendai → Xenday  と表記しようか!!!
下の図はフィリップ ブリエと言うイエズス会の修道僧であり地図職人が書いた日本図
北方の入り江の所に Xenday と表記がある。ちなみに1650年刊行の書物らしい。 すごい!
 
追記 
この地図入り日本やアジアを紹介する書物が刊行される少し以前、
伊達政宗の時代、支倉常長率いる慶長遣欧使節がローマ法王謁見などを目的として派遣されていた頃、支倉ご一行が行く先々では、異星人か、はたまた野蛮な国の輩がやって来たかと騒がれ、滞在し通過して行った街街で様々な形での異文化交流や、住民達の驚きの様子が様々な形で逸話として現在まで語り継がれている。

当時正宗配下の侍達は主君の名前をDATEという呼び名で自らを呼称していた訳ではない。
IDATE(いだて)と自らを呼称していた、と当時の現地の役人が書いた書物に
聞き書きした記述がある。 
だから本来は いだて 言っていた名前が → だて 
と言う風に呼びやすい表現として400年をかけて変化していったと考えられる。

欧州人の度肝を抜いた鼻紙
ヨーロッパで珍しかった日本の鼻紙
奥州仙台の伊達政宗が、支倉常長一行を慶長18(1613)年にヨーロッパへ親善使節(慶長遣欧使節)として派遣しました。同年10月28日、支倉常長一行は現在の宮城県の月の浦港を出港し、1年後にスペインに上陸しました。一行は、スペインからイタリアに向かう途中に嵐にあって南フランスのサン・トロペに避難しました。その時のことです。支倉常長一行が使った鼻紙を見物に集まった人々が争って拾ったと言うことです。この時の様子がサン・トロペ侯爵、同侯爵婦人らの手によって記録され、それが、パリの国立図書館と南仏のカルパントラ図書館に現存しています。侯爵夫人は、次のように記録しています。
「彼らは、ほとんど掌の大きさほどの、中国の絹の鼻紙で洟(はな)をかみ、1枚の鼻紙は二度とは使いませんでした。洟をかむたびに地上に紙を捨てますので、見物に集まったこの地の人々が拾い集めるのを見て面白がっておりました。彼らは胸にたくさんの紙をはさんでいましたが、長途の旅に充分なだけを持ってきていましたので、こんなことができたのです」。一行の鼻紙は、イタリアのローマでも珍しがられ、ローマのアンジュリカ博物館と人類学博物館に、今もなお“支倉の鼻紙”とされるものが保管されているそうです[山内昶著『「食」の歴史人類学』(人文書院1994年)]。
 支倉常長の一行はたしなみとして、伊達藩の紙漉きがつくった鼻紙(懐紙)を十分に用意して日本を出発したのですが、これがヨーロッパで意外な反響を引き起こし、彼らが無造作に使い捨てる鼻紙が、あまりに上質なのに人びとはびっくりしたわけです。
 当時の日本では、各地で紙(和紙)づくりが盛んになっていました。仙台市にも柳生(やなぎゅう)和紙があります。それ(手すきの里 柳生和紙など)によると、柳生和紙は流漉き法による漉き方ですが、今からおよそ400年前(慶長年間)に、仙台藩主伊達政宗は米作り以外の産業を盛んにするために福島県伊達郡茂庭村から4人の紙すき職人を柳生によんで、和紙づくりの指導にあたらせました。そして作られた和紙は藩の御用和紙として使われていた、とあります。支倉常長一行が持っていた鼻紙が柳生和紙であったか定かではありませんが、身近にあり豊富に良質の紙が充当できたものと考えられます。
 これに対して、そのころのヨーロッパでは紙はまだまだ貴重品で、しかも粗悪でした。亜麻や木綿のぼろ布を原料にした旧式の溜漉き法による製造で厚手の硬い紙でしたので、鼻をかむのに上流階級は布(ハンカチ)で、一般庶民はもっぱら手か服の袖などが使われていたということです。そのため「日本人たちは、紙で洟をかむとその紙を二度と使わずにすぐに捨ててしまった。見物人たちは、その紙を我先にと競って拾い、手に入れていた」とびっくりしたわけです。「紙で洟をかみ、その紙を使い捨てる」という習慣が非常に珍しく贅沢に感じられたのです。
 それからおよそ240年後の1854(安政元)年、江戸幕府は215年にわたる鎖国をときました。開国により、多くの欧米人が日本を訪れたのですが、そのときも日本人が捨てた鼻紙を物珍しそうに拾ったたそうです。欧米人たちはハンカチは持っていましたが、鼻紙のようなものは持っていなかったので、日本人が鼻をかんで捨てたり、ちょっと汚れたところを拭いて捨てたちり紙などを珍しがって拾って歩いたということです。このころも日本の鼻紙は外国人には珍しかったわけですが、わが国の当時の紙(和紙)は世界でも先行しており、非常に誇れるものだったのです。

③ その後の仙台和紙の行方
ポツダム宣言(ポツダムせんげん、The Potsdam Declaration)は、1945年7月26日
のポツダム会談での合意に基づいてアメリカ合衆国、中華民国および英国の首脳が、
大日本帝国に対して発した第二次世界大戦(太平洋戦争、大東亜戦争)に関する13
条から成る降伏勧告の宣言。
宣言を発した各国の名をとって「米英支ソ四国共同宣言」ともいう。

1945年8月10日、大日本帝国はこの宣言の受け入れを連合国側へ打電。9月2日、
東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリの甲板で昭和天皇・政府全権の重光葵と大
本営全権梅津美治郎が連合国への降伏文書に調印した。

この降伏文書として宮城県白石市の白石和紙が用いられ、マッカーサー元帥が
「紙は千年持つそうだが、この条約も千年持つように。」と言ったとされる。

正に、捨てる かみ あれば 拾う かみ あり

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3-6 P. Briet: `ROYAUME DU IAPON` (c.1650)
 銅版・手彩色。57×43 cm。
 テイシェラの日本図の約半世紀後の「日本図」である。フランスの宣教師ブリエによってフランスの Pierre Marietteから刊行された。本図には,日本内部の国境が描かれているほか,YENDO,OZACAなどの地名がみえ,IESSOが姿を見せている。
 もっとも架空の島々が太平洋に描かれていることは前掲のテイシェラ図やブラウ図と同じであり,さらに琵琶湖~淀川が内海として描かれている。これは本図の原図となったポルトガルの宣教師A.F.カルディムの『日本殉教精華』所載図を踏襲したものである。
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by crosby2 | 2009-04-22 00:02 | 散文