仙台の人と街を応援する企業家組合


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クリエイティブカフェ 仙台のご報告!!

第1回目のクリエイティブカフェ仙台をせんだいメディアテーク1階オープンスクエアにおいて開催し、68名のお客様にお越しいただきました。
 
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出演 
千葉 富士男 氏  ジャズライブハウスCrosbyオーナー
鈴木 真一 氏   forestnauts records代表
三浦 裕典 氏   NO DOUBT tracks代表
コーディネーター 
榊原 光裕 氏    音楽家、ピアニスト

 今、地方を音楽活動の拠点とし、地方に暮らしながらメジャーデビューがあたりまえとなりつつあります。そのような中、地方のアーティストは、いかにオリジナリティーを磨き、発信しようとしているのかなど、地方のミュージックシーンの「今」と「これから」について、コーディネーターに音楽家でピアニストの榊原光裕氏、ゲストにforestnauts records代表 鈴木真一氏、ジャズライブハウスCrosbyオーナー 千葉富士男氏、NO DOUBT tracks代表 三浦裕典氏をお迎えし、語り合っていただきました。
 
 コーディネーターの榊原氏は、ミュージカルなどの作曲、ピアニストとしての演奏活動のほか、大型プロジェクトの企画・音楽監督などを手がけられ、定禅寺ストリートジャズ・フェステバルの企画などにも参加されております。

 トークに先立ちまして、コーディネーターの榊原氏から、映像によるゲストの方々の紹介等がそれぞれ行われました。

 鈴木氏は、80~90年代のサブカルチャーシーンに影響を受け、インディペンデントレーベル「forestnauts records」を設立。FreeTEMPOの数々のプロジェクト、Satokolab、RACLAのプロデュース、antennasiaのリリースを手がけられたほか、ご自身は昨年、WEEKENDERSを結成し、活動されています。

(榊原氏)
 鈴木さんは「forestnauts records」を設立されておりますが、そのきっかけや、なぜ仙台でやろうと思われたのでしょうか?

(鈴木氏)
 そうですね、僕がレーベルを設立した時も、そのつもりは全く無かったんです。とにかく、音楽に携わる仕事だったらなんでもよかった。僕は、ずっと十代のころからクラブでDJとかをしていて、その後仙台に出てきてレコード屋で働き、イベントとかを通じて音楽仲間ができました。その時が一番楽しかったかもしれないです。常にレコードとかが入荷してくるので、常に新しいものと接する事ができてすごく充実していました。

 しかし、インディペンデントレーベルと言って、一人とか二人とか少人数で小さなレコード会社を運営するというものがあるというのは当然知っていたので、当時の音楽仲間に一人で、うちのレーベルで始めてリリースすることになるアーティスト「FreeTEMPO」の半沢君の「音」を聞いた時に、「これは世に出してあげた方がいいんじゃないのかな?」と思ったんです。ただ、お金が全く無かったので、なんとかある程度の額を工面をして今の会社を設立しました。

 ある程度の金額で今の会社を作ったということも、「新しい」という気がしますが?

 そうですね、いわゆるベッドルームミュージックと言うんですけど、自分の部屋で全部作れる時代だからだと思います。CDのデザインだとか、ミックスしたり、マスタリングしたり、ということもクオリティーは別として自分の家で出来ますし、CDを作るお金とディストリビューター(販売者・流通業者)さえあれば基本的には出せる、という事があったからだと思います。
最近は、日々音楽シーンが大変な状況になっているので、売り手も売れる商品が欲しくなります。そういう意味では、当時よりも「扱ってもらえ易くなっている」と思います。だから、作り手にはいい状況にあるのかもしれません。でも、「簡単に音楽を作れてしまう」ということは、中々難しいのかなと思います。



 千葉氏は、毎日ジャズのライブを行う店として多くのファンを持つジャズライブハウス「Crosby」を経営されています。また、千葉氏はCrosbyの経営のほかにも、青葉まつり実行委員として、親と子のウォークラリー実行委員として、様々な地域の街づくりに関する活動をされています。そして、楽天球団設立時には、商工会議所仙台街づくり委員長として球団誘致に参画し、楽天マイチーム協議会設立を立ち上げ、球団とファンとの橋渡しをされています。

 千葉さんは様々な活動をなさっていますが、その活動が、千葉さんの中ではどのように、Crosbyでジャズを提供している事に結びつくのでしょうか?

(千葉氏)
 私と音楽との関わりの始めというのは、私が15,6才の頃は仙台市に当時ジャズ喫茶がたくさんありまして、朝に「学校へ行ってきます」と言ってジャズ喫茶に行くと、前の日からの演奏を終えたジャズミュージシャンたちがたむろしていました。そういう人たちと関わりを持つようになり、いつしかその人たちのバンドボーイのような事を始めました。

 そうしている間に、そういう音楽関係者の所には必ず「お大尽」といわれる人がいまして、そういうお大尽の方々は、街の文化の後ろ盾であったわけですが、仙台はそういう古い文化というのが根付いている街だったんです。その中のお大尽の中の何人かが、年々演奏する場所が無くなり、ミュージシャンたちが困窮していく中で、その「救済」というわけではないですが、そのお大尽の人たちから「おまえやっちゃいなよ」とお誘いを受けて、自分でジャズクラブを始めることになったんです。そうしている間に、元々仕事を始める前から街づくりをしていまして、街づくりというのは地域の歴史的建造物とか人材とかを「いかに活用するか」が街づくりの原点だと思うんですが、そういうことと音楽とリンクし始めて、「街に埋もれている音楽家を活用できる場を与える、作る」というのが面白くなって、店と、ミュージシャンと、他のいろんな団体と、学校なんかとも共同作業をしながら今に至ります。

 音楽を作る者、演奏する者というのは、いくら自分が「頑張って発表しよう」と思っても それだけでは成り立たないものがあって、それを支えてくれるいろいろな環境があってのことと思います。そういう点からも、千葉さんみたいな人がいらっしゃると、とても救われます。そういえば先ほど千葉さんの話の中で、「お大尽」のお話が出たのが大変興味深かったのですが、今仙台にお大尽というのはいるんでしょうか?

 実際のところ、そういう方を「救っている」というよりも、私がそういう方に「救われている」と思っています。私は、ほぼ30年間毎日生のライブの演奏を聞いていて、ちょっと聞けばその人のレベルが分かります。そういう厳しい目を持ちながら、そこに寄って来てくれている人は、私が選別しているのではなく、彼らが選別して寄って来てくれている。お互いに助け合うというか、「彼らが私に出来ない部分を担っている」という部分が多々ある。それはお互い様だなと思っています。

 「お大尽」についてですが、昔は商店や企業経営者の方というのは、お給料という感覚以外で使えたお金というのが、たくさんあったと思うんですね。今は、社長であってもお給料で生活をしなければいけない、接待交際費というものもほとんど使えない状況です。そういう状況から考えると、お大尽が出にくい状況なんです。ただ、企業が「企業メセナ」という面で文化的なものにお金を出す風潮が出来ました。そういう意味では、そういう方が昔で言うお大尽なのかなぁと思います。



 三浦氏は、LGYankeesのHIROとしてアーティスト活動され、2007年に東北から全国へムーブメントを起こすべく音楽レーベル「NO DOUBT tracks」を設立。あえて大手レコード会社ではなくゲーム事業で有名な「HUDSON」と契約し、仙台を拠点に活動。2008年には、元オフコースの小田和正をフィーチャーして「Dear Mama feat.小田和正」を発売。着うたフル第1位を獲得するなど、その名を全国に広げる。「アーティスト」兼「プロデューサー」そして「経営者」として活躍されています。

 アーティストが経営者というのは「新しいな」と感じるのですが、アーティストから経営者というのはどういう経過だったのでしょうか?

 また、一時代昔は東京が中央にあって、そこから全てが配信されていた時代でしたが、社会の構造もだんだん変わってきたような中で、三浦さんのように、アーティストとして経営者として、地方から全国に発信しているような人は全国のいろいろな町にいるものですか?

(三浦氏)
 始まりは、僕らがHIPHOPというジャンルの音楽をやっていたことです。活動をするうちに「CDを出したい」から始まって、「出し方がわからない」と次から次に問題や課題がでてきて、全部が全部わからないまま、なんとか実現に向けて一個一個問題等を消化していった結果、今に至っています。

 僕たちが仙台で活動しているのは、仙台が好きという事と、なにかと便利だからです。放送局がたくさんあり、それに伴いプロデューサーやディレクターの方もいらっしゃる。いろいろチャンスが広がっているからだと思います。ただ、音楽じゃなくてもそうだと思いますが、根本的に「ものが良くないと売れない」。どこであろうが、良いものはどこでも必ず光ります。僕には仙台から全国で勝負していく仲間がいますし、自分の力を信じていましたので、仙台に残り、拠点を置きました。

 小田和正さんとコラボレーションしたのは、今年の5月でしたね。
 私としては、「どういう経緯で小田さんと一緒にお仕事をしたのか」が個人的に非常にお聞きしたいところなのですが。

 どこの放送局に行っても同じ質問をされます。僕も同じ立場だったら聞きたいと思います。僕が小学校の時に、ドラマの主題歌だったのですが、小田さんのヒット曲「ラブストーリーは突然に」がきっかけで大好きになり、「いつかどこかで」を聞いた時に曲を聞きたくて、映画を2回自転車で見に行ったこともあります。このCDを出す時に、サビを誰に歌ってもらうかを考えた時に、「どのアーティストさんだったらこの曲をきっちり歌い上げていただけるか」を考えた結果「小田さんとやらせてくれ」とメンバーに相談しました。メンバーはOKで、それをHUDSONさんに報告したら、「君たちは何を言っているんだ」と呆れられました。1stアルバムが今では15万枚くらいまで伸びていますが、そのくらいの数字だと、小田さんのような大先輩では当たり前ですから、ましてHIPHOPということで多少止められたんですが、小田さんと直談判しました。お忙しい方だったので最初は断られたのですが、「曲を聴いて決めて欲しい」とお願いし、2回目の直談判したところ「いい曲じゃない、やろうよ」と気持ちよく引き受けてくださいました。

 ありがとうございました。

 これまでは、みなさんの現在の活動状況、プロフィールという形でご紹介いたしました。

 これからはそれを踏まえ、仙台とみなさんの活動についてお話していただきます。仙台にこだわらずお話していただいて構いません。

 みなさんは、仙台に住んで仙台を拠点として活動しておられますので、その話から入りたいと思います。その後、なるべく広く展開してもらえればと思います。

 「楽都」という言葉が最近盛んに使われておりますが、仙台は音楽の町という事で非常に力を入れてキャンペーンが進められていますが、それと皆さんの活動の接点についてどのようなものかと伺ってよろしいでしょうか?

(千葉氏)
 それでは、私から「音楽の町である仙台がどういう歴史を積んできたのか」をお話しいたします。仙台の音楽シーンの画期的な出来事は進駐軍が仙台に来たことでした。GHQが駐留する時に、そこに米兵の福利厚生施設も作られ、そういう福利厚生施設のクラブでジャズを演奏するミュージシャンが地元から選ばれました。その中には、山形から出てきてキャンプで演奏していた高橋達也さん。この方は後に仙台のミュージシャンを伴って東京に出て行って東京ユニオンを結成し、日本トップのビックバンドを作られました。松山町出身のフランク永井さんなども仙台の米軍キャンプをスタートにしておられました。米軍は昭和32年までいまして、その後はダンスホールやキャバレーが乱立します。キャバレー一軒があると、バンドミュージシャンが30人はおり、そういう所が10から15箇所ありましたので、当時仙台にいたジャズミュージシャンは、300から450人はいたことになります。それがどうなったかというと、バブル崩壊のころまで仙台は持ちこたえていたんですが、その後にキャバレーなどの演奏する場所がほとんど無くなってしまい、ミュージシャンは行き場所を失ってしまったんです。その少し前に、ジャズ喫茶が隆盛を極めた事も大きな影響を与えました。実はジャズ喫茶は、ジャズにとってはいい面と悪い面があって、ジャズ本来の醍醐味は「同じテーマを同じメンバーでやってもいつも違う」という事なのですが、生演奏じゃなくジャズ喫茶でレコードを聞くようになると、ジャズミュージシャンの演奏する機会が大幅に減ってしまいました。しかし、フランス革命で宮廷料理人が革命後に街場に散ってレストランを始めて、フランス料理の隆盛につながったようなことが仙台でも起こりました。300から450人いたプロのジャズミュージシャンが一斉に職場が無くなった時に、その頃ちょうど榊原さんがやり始めた定禅寺ストリートジャズフェスティバルなどが始まりました。アマチュアとして出ている人に、すごくレベルが高い人がいて、聞いてみると、実は昔プロでやっていた人というのがすごく多くて、今のジャズフェスティバルの流れになっている。ただ、一番隆盛を極めた時の人数の10分の1になっている。それがジャズの現状です。

 そういう歴史があるという話は伺ったことがあります。ただ、アメリカなどでも、ジャズミュージシャンがみんな、決して食えているわけではなく、アルバイトをしながら演奏してCDを出している。ちょっと、日本とアメリカと状況が違うかもしれませんが、仙台音楽シーンのそのような状況をお話いただきました。
 鈴木さんは、いかがですか、仙台に来たときはどんな状況でした。

 僕は山形の出身で、22歳くらいに仙台に来たのですが、当時からクラブもたくさんありましたし、仙台は「レゲェの町」というイメージが強かったです。その後、クラブミュージックというのが90年代初頭から日本各地に飛び散って、そういう流れの中で仙台のクラブも活気付いたし、「今と比べても遊び場があった」とすごく感じました。今は、クラブというと皆さんあまりいいイメージが無いと思いますが、決してそのようなことはありません。例えば、祭の盆踊りとかのように、人は必ず「踊りたい」という欲求がどんな世代にもあると思いますが、外で踊ることに今の若い人たちは、「恥ずかしい」ということがあると思うので、そういう場所を無くしてしまうのは、果たしてどうなのかと思うんです。そういう所を無くすのを、僕は無くして欲しくないし、そういう遊び場で得るものがあると思います。

 そうですね、遊び場は大人が考えると、どうしても健全な遊び場しか認めないところがあるんですね。学校なんかでも、新設されると、明るくて見通しが良くてきれいな学校が増えている。一見良い様に思うんですが、「子供たちはいつも大人の目が届くところでだけ遊んでいたのでは、決して良い育ち方をしない」と僕は思っているので、大人の目の届かない場所を作ってやったほうが良いと思っていました。今そんな感じで鈴木さんの話を伺いました。

 三浦さんは、最初にCDを全国展開しようとした時に、大手レコード会社でない「HUDSON」をあえて選んだのは、どういう思いがあってのことだったのでしょうか

 大手レコード会社ですと様々な面において影響力を持っていると思います。僕は「ただの1アーティスト」としているのであれば、大手レコード会社の下で、自分の作り込むもの、歌うもの、表現するものに専念して後は会社にお願いするのが一番だと思います。ですが、事務所の運営やプロデュースもしているので、誰が何をして、どういう権利を持っているなど、運営やプロデュースに役立つものを一から勉強したかったので、あえて、レコード会社ではなく、新生レコード会社HUDSONさんと、業務提携することを選びました。

 表現者でありプロデューサーである鈴木さんが、大衆に向かって活動なさっている中で、感じている手応えというものはどうでしょうか。

 手応えですか?手応えは全く無いです。無いというか、現状がとても厳しい状況で、CD業界全般の売り上げが落ち込んでいます。例えば、この前韓国で聞いたら、「CDだけを置いているショップはほとんど無い」と言われました。実際韓国は、CDでなくて別なもので聞けるインタラクティブ(配信)の環境が世界トップレベルだったりするので、そういった状況のようです。日本もこれからそのような方向なので手応えはつかめなくなっていくと思います。

 まさに、音楽業界だけでなく、全ての業界がそういう方向性を持っているかと思います。私の知りうる範囲では、出版業界なんかに関しても、大手が悲鳴を上げている中で、リトルプレスといって、個人が出版をして流通経路を自分で見出すようになっている。そんな状況と音楽状況は似ているのかもしれません。
 

出演 
千葉 富士男 氏  ジャズライブハウスCrosbyオーナー
鈴木 真一 氏   forestnauts records代表
三浦 裕典 氏   NO DOUBT tracks代表
コーディネーター 
榊原 光裕 氏    音楽家、ピアニスト

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by crosby2 | 2009-06-01 21:09 | 散文