仙台の人と街を応援する企業家組合


by crosby2
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30

X橋 残像

X橋

X橋の名称
江戸時代、仙台城大手門前からみて大町・新伝馬町・名掛丁・二十人町へと続く道が仙台城下町を東西に貫くメインストリートであり、その北側に元寺小路が鉄砲町へと続き並走していた。これら2本の東西道は二十人町および鉄砲町の東の榴ヶ岡手前で合一して石巻街道となり、同街道最初の駅の原町宿、仙台の外港である塩竈、日本三景・松島、東北太平洋岸海運の拠点港・石巻へと繋がっていた。1887年(明治20年)、日本鉄道本線(1909年〈明治42年〉に東北本線と改称)が仙台区を経て塩竈まで開通すると、元寺小路と名掛丁の2つの並行する通りは東西に分断され、踏切が設置された。踏切は相次ぐ複線化と列車の増便から開かずの踏切状態となり、1917年(大正6年)頃、踏切閉鎖と橋設置の案が出され、旧日本陸軍第二師団と歩兵四連隊の強い要請によって宮城野橋は建設された。この橋は線路をまたぐ跨線橋で、橋の正式名称の宮城野橋より、変則六叉路交差点の通称「X橋交差点」と呼ばれた。

X橋とその周辺
日本鉄道本線(1909年〈明治42年〉に東北本線と改称)が出来た当初から、この橋と通りは、仙台城跡の第二師団と歩兵第四連隊(現榴岡公園)や練兵場(現宮城野原公園総合運動場)との間を結ぶ大動脈であった。また時代を下って終戦後も、その性質は変わらず、米国の駐留キャンプがあった仙台城二の丸・三の丸跡や市内中心部と、榴ヶ岡や苦竹、霞の目や多賀城等の駐留キャンプ間を結ぶ幹線道路となった。
歴史的にみると、ご一新後、仙台城二の丸の官軍は、東北鎮台、仙台鎮台と名を変えて常備軍となり、二の丸に司令部を始めとした中枢部を置いて発展していくことになる。1878年(明治11年)、二の丸から仲の瀬橋を渡って北に位置する常盤丁に国分町から20数軒の遊里が移転し、1886年(明治19年)、常盤丁の南に隣接する現在の西公園に偕行社(陸軍の将校クラブ)が設置された。遊郭と将校クラブが隣接してあるのは軍隊の士気にも関わる問題となり、日清戦争勃発を期に、1894年(明治27年)には、当時の北東郊外であった宮町の東の蜂屋敷(旅籠町、新常盤町、常盤丁遊郭との俗称あり)に遊郭は移転した。蜂屋敷のほど近くには歩兵第四連隊(現・榴岡公園)、騎兵第二連隊(現・東華中学校)、練兵場(現宮城野原公園総合運動場および仙台貨物ターミナル駅)、飛行場(現・仙台医療センター)、台原陸軍射撃場(仙台台原小銃射撃場。旧宮城県警察学校から台原小学校にかけて)などの軍の施設がつくられ、遊郭は戦後まで続いた。なお、蜂屋敷の遊郭が廃止された戦後の仙台では、旅館街・屋台街でもあった仙台駅北のX橋周辺に風俗街、いわゆる私娼窟的なものがあった。
必然と、長年に渡り軍人さん達相手の商売、生業で生計を立てる人々が多く集まり、終戦後は特に人種の坩堝と化し、混沌と熱気が入り混じる街となっていった。
このことは、仙台発のハードボイルド小説作家、高城高氏の「X橋付近」や、熊谷達也氏『いつかX橋で』の中に生き生きと描写されている。

e0019860_21523890.png

1997年頃 二十人町側 【名掛丁の東端】側から西X橋を望む
e0019860_21524926.png

2006年頃 二十人町側 【名掛丁の東端】側から西X橋を望む
e0019860_2153017.png

1970年頃 X橋の上より名掛丁 二十人町側へ望む
[PR]
by crosby2 | 2011-03-01 21:50 | 散文