仙台の人と街を応援する企業家組合


by crosby2
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八月に想う事 白石和紙に想いを寄せて

ポツダム宣言(ポツダムせんげん、The Potsdam Declaration)は、1945年7月26日
のポツダム会談での合意に基づいてアメリカ合衆国、中華民国および英国の首脳が、
大日本帝国に対して発した第二次世界大戦(太平洋戦争、大東亜戦争)に関する13
条から成る降伏勧告の宣言。
宣言を発した各国の名をとって「米英支ソ四国共同宣言」ともいう。

1945年8月10日、大日本帝国はこの宣言の受け入れを連合国側へ打電。9月2日、
東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリの甲板で昭和天皇・政府全権の重光葵と大
本営全権梅津美治郎が連合国への降伏文書に調印した。

なお、降伏文書として宮城県白石市の白石和紙が用いられ、マッカーサー元帥が
「紙は千年持つそうだが、この条約も千年持つように。」と言ったとされる。

この和紙をすいた職人さんは、果たして知っておられたのだろうか!
きっと知っていたに違いない。その文書の所在は?
アメリカのナショナル公文書館?
日本は国会図書館に所蔵されているのだろうか?

新しい日本国憲法が占領軍により作成され、日本は一見平和国家に生まれ変わった。が、
その後、アメリカ政府の勝手な思惑や対日本政策の路線変更で
憲法は歪んだ解釈をされるはめになったり、兵力を否定しておき乍ら自衛隊の組織を作り上げて行かされた。
降伏とはそんな理不尽がまかり通る事なのだが、時の政権や軍に翻弄されて来た日本は幸か不幸か、朝鮮動乱を挟み高度経済成長を成し遂げる。
和紙をすいた職人
それを進言した政府高官
署名した人
ミズーリ艦上は、軍人に見守られ乍ら、白石和紙数枚に、互いの代表者が署名をして交換された文書で戦争が終結し、アメリカ主導の政権がその後数十年続く手始めとなった訳だが、白石和紙に込められた想いは、果たして成就されたのだろうか!! 

仙台での米軍の駐留は昭和20年から32年迄の12年間続いた。
そのキャンプ毎に階級分けされたクラブが有り、そのクラブにはオーディションでABCに採用分けされたバンドマンが派遣されて、夜毎、兵士達のの慰め役として演奏していた訳である。その12年の間に、仙台のキャンプを巣立って日本の音楽の黄金期を築いた強者は多い。そして、仙台に残りグランドキャバレーやクラブ、ダンスホールにナイトクラブで活躍するバンドの数は50とも60とも言われた。ビッグバンドで17−8人、少人数でも3人から7人の編成だから、ざっと計算しても500人からのバンドマンが闊歩していた訳である。
そんな関係で仙台にはバンドを雇う店が多かったようだ。
私がこの世界に飛び込んだ頃にはジャズ喫茶が全盛であったが、グランドキャバレーがまだ10件弱は残っていて、各有名ホテルのメインダイニングやメインバーには必ずと言って良い程、ピアノトリオ、プラスボーカルかサックス位は入っていたもので、ダンスホールやクラブは有に及ばず、チェンジバンドを抱えていたお店は多かった。つまり複数のバンドを抱えていた訳で、仙台商人の心意気ここに有りという具合である。
今は昔、です。
その後、大手製紙メーカーのS会長がフィンセントヴァンゴッホのひまわり等を落札したオークションが話題になった頃を挟んで、仙台は、ゼネコン汚職疑惑で仙台市と宮城県の首長は相次ぎ獄に繋がれたりして行く中で、料亭や花柳界が衰退するのが早いかバンドの文化が破壊されるのが早いかの勢いで、バンドマンの飯の種である箱!が急激に衰退し行く場を失って行った。

時は移ろい、時代は変革して行く。
定禅寺ストリートジャズフェスティバルが開始されると、始めはプロのジャズメンだけの出演であったが、門戸を広く開け、ジャンルにも拘らなく無くなってからは、アマチュアという顔で、フェステヴァル出演者の中に元バンドマンがどんどんと復活して、質の高いバンドの出演が相次いで行く。その積み重ねが、今日の仙台の様々な音楽を絡めた催しの出演者の質の高さに繋がっているのではと想うのだ。

仙台から駐留軍が撤退して今年で50年。
つまりは自衛隊が苦竹他に営巣し始めてから50年という月日が流れた。
駐留軍が、生活の中の娯楽という概念や、様々な形の、有形無形の息吹を与えてくれた様に、今の自衛隊は現在の私達に何かをもたらせてくれているのだろうか?
災害救助隊に、なってしまっては居ないだろうか!

白石和紙に記されたポツダム宣言。無条件降伏受諾のミズーリ艦上での署名。
あれから63年。

自国の兵隊は警察予備隊を経て米国の主導で組織されたくだされもの。
憲法も然り。

下されものの憲法による違憲状態の自衛隊ではなく、自国による憲法の制定と、他国から平気で干渉される様な、無様な、国益無視の政治が跋扈する永田町官僚政治では無い、国益を重視し、領土を保全し、主義主張をしっかりと持った、もの言う政治家が司る、そんな国になる事を、私は強く期待する。

その中で文化を育み、歴史を尊重し学び、世界の友好に寄与する。
無益なODA,無益な国連負担金、無益な米軍への思いやり予算。
そんなのは止めればいい!
有効な予算の執行と、主義主張をはっきりと言い続ける事が
日本が三顧の礼を持って迎え入れられる、国連の安全保障理事国への道ではないだろうか。自らが、安保理へ挙手する必要などない。
そう、私は想う。
今年も暑い8月が来る。私はこの節に、つい、そう考えてしまうのだ。


経緯
ポツダム会談の席上で、アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマンに原子爆弾開発
実験の成功が伝えられた。

会談に加わっていたソビエト連邦は、大日本帝国に対して中立の立場をとっていたた
め、宣言に加わらず、アメリカ合衆国、英国、中華民国の3カ国首脳の共同声明として
発表された。

英国代表クレメント・アトリーは総選挙後の後始末のために不在であり、中華民国代表
蒋介石もポツダムにいなかったため、トルーマンが自身を含めた3人分の署名を行った
(蒋介石とは無線で了承を得て署名した)。

ソビエト連邦が宣言の具体的内容を知ったのは公表後であったためヨシフ・スターリン
は激怒したという。

8月8日にソ連対日宣戦布告してから宣言に加わった。


概要
宣言の骨子は下記のとおりである。

日本を世界征服へと導いた勢力の除去(6条)

カイロ宣言の履行と領土を本州、北海道、九州、四国及び諸小島に限定(8条)

戦争犯罪人の処罰(10条)

全日本軍の無条件降伏と日本国政府によるその保障(13条)
冒頭第1条にて、日本国に対し戦争を終結する機会を与える、とし、末尾第13条に
おいて、日本軍の無条件降伏とその政府による保障が受け容れられない場合は、
迅速且つ完全なる壊滅あるのみ、と声明している。


影響
ポツダム宣言に対する日本国政府の対応は、戦争終結の手段として検討する一
方で、無条件降伏とされ、いわゆる国体護持(天皇制の維持)について言及され
ていなかったことから、宣言の受諾をするにしても、その点に関する確保を求める
意見を中心に、政府の内部で激しい議論が起こった。

また、当時元首相の近衛文麿を昭和天皇の特使としてソビエト連邦に派遣して和平
の仲介を求める構想が進められており(ソビエト連邦は受ける気はなかったものの、
アメリカ合衆国・イギリスと協議しヤルタ協定でソ連対日宣戦布告まで大日本帝国の
申し出を放置する事に決定していた)、それに対するソビエト連邦政府の返事を待つ
との見方もあり、結局、ポツダム宣言の黙殺を決めた。

政府は、7月27日にポツダム宣言の存在を論評なしに公表し、7月28日に読売新聞で
「笑止、対日降伏條件」、毎日新聞で「笑止!米英蒋共同宣言、自惚れを撃破せん、聖
戰飽くまで完遂」「白昼夢 錯覚を露呈」などと報道された。

鈴木貫太郎首相は同日、記者会見し「共同聲明はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府
としては重大な価値あるものとは認めず「黙殺」し、斷固戰争完遂に邁進する」(毎日
新聞、昭和20年(1945年)7月29日)と述べ、翌日朝日新聞で「政府は黙殺」などと報
道された。

この「黙殺」は日本の国家代表通信社である同盟通信社では「ignore it entirely(全
面的に無視)」と翻訳され、またロイターとAP通信では「Reject(拒否)」と訳され報道
された。

なお宣言の内容としては、国務次官グルーと陸軍長官スティムソンによる起草段階で
は天皇制を維持する旨の条項が含まれていたが、当時はアメリカ合衆国政府内でも
その是非について見解が定まっておらず、最終案では削除されていた。

8月6日に広島市への原子爆弾投下が、3日後の8月9日には長崎市への原子爆弾投
下がなされ、同日(一方でヤルタ協定中の秘密条項で「ドイツ降伏の日の2ヶ月または
3ヶ月後を経」た参戦を約束しながら)日ソ中立条約を結んでいたソ連の対日宣戦布告
により満州国へ侵攻が起こった(ソ連は条約の不延長・破棄を直前に通告して来てい
た)。

ソ連の満州国侵攻に衝撃を受けた日本の戦争指導者たちは、8月9日の御前会議で
「国体の護持」を条件に受諾を決定し、8月10日に連合国に打電した。

翌11日アメリカ合衆国は「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決
定される」と回答し、「降伏の時より、天皇および日本政府の国家統治の権限は連合
軍最高司令官に従属する(subject to)」と宣言の内容を繰り返してきた
(「バーンズ回答」)。

"subject to"の訳について「制限の下におかれる」とする外務省と「隷属する」とする
軍部の間の対立があったが、国体がどうなるかの確証はないままに、8月14日の御
前会議で宣言受諾が決定されて詔勅が発せられた。

8月15日正午、玉音放送(天皇の声を「玉音」と言った)により、臣民と大日本帝国陸軍、
大日本帝国海軍に降伏・太平洋戦争の終結が伝えられた。

軍隊に停戦命令が出されたのは8月16日である。

なお、ポツダム宣言受諾前には日本国内で混乱が見られ、ポツダム宣言受諾が決定し
たという報が入ると、クーデターによって玉音放送を中止させて「本土決戦内閣」を樹立
しようという陸軍青年将校の動きがあり、8月15日未明に一部部隊が皇居やNHKなどを
占拠したものの、陸軍首脳部の同意は得られず失敗に終わった(宮城事件)。

これとほぼ同時刻に陸軍大臣阿南惟幾が割腹自殺をしている。

玉音放送の後も、ソ連・中国との間では戦闘が続いた。

9月2日、日本政府がミズーリ号の艦上で降伏文書に調印。

9月4日、ソ連軍が北方四島を占領し終えて、ソ連との戦闘が終結した。

その後も日本軍残党と中国軍・アメリカ軍との小規模の戦闘は続いた。

日本軍で最も最後まで戦闘を継続していたと認められた兵士は、1974年に発見された
小野田寛郎である。

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by crosby2 | 2008-08-01 00:00 | 散文