仙台の人と街を応援する企業家組合


by crosby2
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明智光秀さんと坂本龍馬さん 近衛家 そして細川家


信長様を本能寺で討ったのは明智光秀さん
時は今 天が下しる 五月かな          愛宕百韻にて
清和源氏の流れを汲む土岐一族出の明智光秀 
天下を取る この五月かな と読んだとか

当時 明智光秀は徳川家康と近衛家の密命を受け織田信長さんを討った、という説が有る。

そういえば、坂本龍馬の家紋は組み合わせ角に桔梗家紋
龍馬だけではなく明智光秀、加藤清正、もこの家紋の一類だった。その可憐な姿はいかにも優しく女性的なため、代表的な女紋の一つとされている。

坂本龍馬は明智光秀の末裔だという話が有るが、坂本姓は明智光秀の居城だった坂本城から取ったという説があるし亀山社中の名も明智光秀の所領の丹波亀山から取ったらしいという事を聞いた事が有る!

そうして考えてみると話のつじつまが合う所が有る。
そうでなくては、一介の土佐脱藩浪士が薩長同盟の橋渡しや 三菱商事の前身の会社を設立出来たで有ろうか?

幕末 グラバーから薫陶を受け資金を得 日本初の会社 亀山社中 海援隊を組織した。そのグラバーさん 資金は何処からでたのであろうか?
たしかグラバー、来日の折は20前後の若造だった筈だし、今で言う数千億円のお金は巨額すぎる。
メーソンだったという話があるし、確かにそんな若さのグラバーさんがあの巨額の資金で幕府幕閣、尊王攘夷と倒幕の両派に資金を提供し開国へと導き、その背後に有ったメーソン達を相当に潤した事を鑑みると、納得かもしれぬ。
そのグラバー 坂本龍馬の亀山社中の後を受けて設立されたのは岩崎弥太郎等の三菱商事。その三菱商事は 長崎のグラバー邸を習得した。
その門柱にはメーソンの紋章が浮かび上がる。

幕末には明智光秀の婿養子の明智左馬介(あけちさまのすけ)の末裔
坂本龍馬が跋扈し、その残した会社が日本の礎を築き、基幹産業の一翼を現代でも続けている。なんと壮大な。。。その背後にはメーソン  
幕末にも近衛家は薩摩藩の後ろ盾と也 水戸藩 倒幕の獅子達の橋渡し役となる。

大東和戦争時にも近衛家は表舞台へ登場し
その後、血を受け継ぐ細川護煕氏の時代も登場する。

その細川家の先祖には明智光秀の三女明智 珠(たま)後の細川ガラシャが居る。
珠は細川忠興に嫁ぐ
永禄6年(1563年)、明智光秀と妻煕子の間に三女として越前国で生まれる。
天正6年(1578年)、15歳の時に父の主君織田信長のすすめによって細川藤孝の嫡男・細川忠興に嫁いだ。珠は美女で忠興とは仲のよい夫婦であり、天正7年(1579年)には長女が、同8年(1580年)には長男(細川忠隆後の長岡休無)が二人の間に生まれた。
本能寺の変
しかし天正10年(1582年)6月、父の光秀が織田信長を本能寺で討って(本能寺の変)自らも滅んだため、珠は「逆臣の娘」となる。忠興は珠を愛していたがために離縁する気になれず、天正12年(1584年)まで彼女を丹後の味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に隔離・幽閉する。この間の彼女を支えたのは、光秀が玉の結婚する時に付けた小侍従や、細川家の親戚筋にあたる清原家の清原いと(公家清原枝賢の娘)らの侍女達だった。
珠の幽閉先とされる場所であるが、丹後味土野の山中(現京丹後市弥栄町)に天正10年9月以降に幽閉されたことは史実である。しかし一方、「丹波史」には丹波味土野に珠が隠棲していたとの伝承「丹波味土野説」がある。この伝承が事実とすると、本能寺の変直後には、細川忠興は珠をまず明智領の丹波味土野屋敷に送り返し、明智が滅亡したのちに改めて細川領の丹後味土野に屋敷を作って珠を幽閉したとも考えられる。
壮絶な最期
関ヶ原の戦いが勃発する直前の慶長5年(1600年)7月16日(8月24日)、大坂玉造の細川屋敷にいた彼女を、西軍の石田三成は人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶した。その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませると、ガラシャは家老の小笠原秀清(少斎)に槍で部屋の外から胸を貫かせて死んだ(偕成社刊『偉人の話』では“首を打たせた”の記述あり。キリスト教では自殺は大罪であり、天国へは行けないため)。38歳。辞世の句として、「ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」と詠んだ。
この後、小笠原はガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃した。ガラシャの死の数時間後、神父グネッキ・ソルディ・オルガンティノは細川屋敷の焼け跡を訪れてガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬った。細川忠興はガラシャの死を悲しみ、慶長6年(1601年)にオルガンティノにガラシャ教会葬を依頼して葬儀にも参列し、後に遺骨を大坂の崇禅寺へ改葬した。

細川家には明智光秀の濃い血が脈々と受け継がれている。


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by crosby2 | 2008-10-23 01:48 | 散文