仙台の人と街を応援する企業家組合


by crosby2
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カテゴリ:散文( 65 )

シティホテルでの遊興と夢からの覚醒
シティーホテルと言う言葉が発するものは、私どもが若い頃本当に憧れた雰囲気を持つ言葉であり、そしてその韻が放つ華やかな響きは、華やかな社交の表舞台。と見え聞こえたものだ。数々のパーティー、シンポジウムに各種大会、学会に新年祝賀会等のお祝い事、披露宴にお悔やみの会等、我々が居る雑多な生活感溢れる喧噪の中から、そんな場に集いし華やかなる人々を目にする時、シティーホテルに集いし面々を見るに付けてただただ本当に憧れたものだ。
仙台ホテルの五階、フォンテーヌブローの円形のカウンターはさり気なく男の見栄の張り方、カクテルやワイン、スコッチ等を駆使しての最新の手練手管を教わる学び舎だった。その奥のフレンチは伝統と格式のある正統派のホテルフレンチで、見合いや結納、様々な祝い等の席の舞台ともなった。無論仙台を代表するミュージシャンがトリオで演奏していて、シティーホテルとは本当に贅沢な場所だと思い知らされた。東急ホテルのフレンチレストラン青葉は初めて女性を招待しのそ方の誕生日を祝った席で、そこで出会ったソムリエの方とは今でも親交がある。地下のバーは小川ロンさんをはじめ多くの音楽家が演奏した正統派のバーでバーテンダーも一流だったし、お相撲さんや多くの有名人やスポーツ選手と酌み交わしたお酒は忘れられない。ワシントンホテルの最上階は週末のカップルや家族連れで大賑わいでオープンキッチンで供されるステーキは安くておいしくて若い二人連れや家族達には大いに支持されたし、バンドの方々の演奏も格好良かった。ここの会員制のクラブやバーでも仙台の先端を引っ張っていた。そんな東急やワシントン、仙台ホテル等のシティーホテルの数々はもう仙台には無い。

そのホテルに入るとドアーマンがそっと近寄り車寄せに誘導してくれる。ドアを入れば大理石の敷石や壁が高級感で更に私達を誘う。ロビーにはロングドレスを着たピアニストが静香なる調べを奏でて優雅に微笑み、香ばしいホテルのコーヒーの香りと、スタッフは教育が行き届き痒い所に手が届く。一段下がってのカジュアルレストランにはランチをしに、打合せをしに良く行ったものだし、手前の中華へ行けば上品且つ先端の中華が食べられて大いに満足したし彼の大監督やご家族に良く逢ったりした。和食のシェフは大きな料亭出身の大変腕の立つ職人さんで繊細且つ新鮮で上品なお料理で多くの常連さんに支持された。最上階のレストランは夜景を見乍ら食事が出来る所で30年前は憧れの的であった。ここのお料理には本当に助けられたもので、接待すれば皆いちころだった。昔はバイオリンやピアノが聞けたし、最近はボールルームと鉄板焼きと姿を変えたが、ここの優雅で落ち着いたホテルらしいホテルのサービスを享受出来る幸せは筆舌に尽くし難い程の至福の時であった。そして一階の会員制のバーオークルームには多くの思い出がある。その昔は三浦誠史さんと言う特攻上がりと言う本人の弁)の支配人さんが居たり村上さんが居て、幸さんがいて加藤さんが居て照井さんが居て角田さんが居て大井さんが居た。良子(ながこ)さんが居てetc,,,,.。三浦さんは私を最後の弟子と言ってくれて励ましてくれた。額の絵、黒光りするカウンター、宿泊客は何なり入れたが、仙台の人は会員でなければ入れないバーとして、多くの著名人や財界、政界の方々に支持されたBARである。会員となるには社長決裁が必要で、お断りされたかく言う自称紳士の面々が大勢居た。機密が保持される、変なお客は居ない、入れない、こども(大人ではないこどな)が居ないと言う事で、料亭ではない所でも多くの秘め事が繰り広げられた公開されない言わば大人の隠れ家的存在。そんな場所への出入りが許されたのも多くの良き出会いと幸運とがそうさせたものであろう。洋箔で出来たシェーカーで夜毎に絶品のカクテルが供され、珍しい街場では手に入りにくいモルトやブランディーも一流のお客様が集まるこのホテルなら採算が取れると言う事でいち早く仕入れられ私達は此処で多くを学び勉強をしたものだ。三階の宴会場の松島、東西とロビーでは多くの夢が見られた。シティーホテルと言う切り口で遊興すると言う事に憧れた私達は、29年程前、この場所で東京からジャズマンを呼び仙台中のトップミュージシャン達と(当時はセレブとは言わず)約300人の紳士淑女が相集い、タキシードとロングドレスでのパーティーを企画し実行した事は忘れ得ない夢である。そんな遊びの舞台でもあり夢の舞台でもあり、仙台でのシティーホテルの代名詞と言われた程のホテルが姿を消すとの残念な報道がなされ、ショックでたまらない。
シティーホテルと言う舞台で夢を見ていた私達は、いきなり後ろから殴られて初めて目覚めた様に覚醒した。と言う訳か。
夢の舞台へ駆け上がれっ!と、突っ走った70年代後半から90年代。その表舞台では今迄紹介した所以外のシティーホテルでもこのような現象が多く目撃されたし、それらを強く憧れ追い求めて目標ともして来た我々にとって、シティーホテルと言う舞台の方が先に舞台から降板させられた、と言う印象である。
安ければ良いのか。外資や大手のチェーン店の豊富な資金力には到底叶わぬのか。いや、地元の企業、商店、街の専門店が無くなってしまったらもう遅いのである。だからこそ、大量仕入れや豊富な資金力をバックボーンとした所の安くて見た目の良い物に乗り移る前に、手を伸ばす前に考えよう。Buy仙台 Eat仙台。 あえて私は言おう、仙台の企業や商店で買いましょう。呑みましょう。食べましょうと。Buy仙台 Eat仙台。そうしなくては何処江行っても金太郎飴宜しく、本当にユニバーサルサービス化されてしまう。何処でも安く、何処でも同じ味、そして味気ない。
ホテルがまた一つ消えると言う事で、我々は考えを新たにしなくてはならない。と、痛切に想うのだ。 
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by crosby2 | 2011-03-09 00:14 | 散文

X橋 残像

X橋

X橋の名称
江戸時代、仙台城大手門前からみて大町・新伝馬町・名掛丁・二十人町へと続く道が仙台城下町を東西に貫くメインストリートであり、その北側に元寺小路が鉄砲町へと続き並走していた。これら2本の東西道は二十人町および鉄砲町の東の榴ヶ岡手前で合一して石巻街道となり、同街道最初の駅の原町宿、仙台の外港である塩竈、日本三景・松島、東北太平洋岸海運の拠点港・石巻へと繋がっていた。1887年(明治20年)、日本鉄道本線(1909年〈明治42年〉に東北本線と改称)が仙台区を経て塩竈まで開通すると、元寺小路と名掛丁の2つの並行する通りは東西に分断され、踏切が設置された。踏切は相次ぐ複線化と列車の増便から開かずの踏切状態となり、1917年(大正6年)頃、踏切閉鎖と橋設置の案が出され、旧日本陸軍第二師団と歩兵四連隊の強い要請によって宮城野橋は建設された。この橋は線路をまたぐ跨線橋で、橋の正式名称の宮城野橋より、変則六叉路交差点の通称「X橋交差点」と呼ばれた。

X橋とその周辺
日本鉄道本線(1909年〈明治42年〉に東北本線と改称)が出来た当初から、この橋と通りは、仙台城跡の第二師団と歩兵第四連隊(現榴岡公園)や練兵場(現宮城野原公園総合運動場)との間を結ぶ大動脈であった。また時代を下って終戦後も、その性質は変わらず、米国の駐留キャンプがあった仙台城二の丸・三の丸跡や市内中心部と、榴ヶ岡や苦竹、霞の目や多賀城等の駐留キャンプ間を結ぶ幹線道路となった。
歴史的にみると、ご一新後、仙台城二の丸の官軍は、東北鎮台、仙台鎮台と名を変えて常備軍となり、二の丸に司令部を始めとした中枢部を置いて発展していくことになる。1878年(明治11年)、二の丸から仲の瀬橋を渡って北に位置する常盤丁に国分町から20数軒の遊里が移転し、1886年(明治19年)、常盤丁の南に隣接する現在の西公園に偕行社(陸軍の将校クラブ)が設置された。遊郭と将校クラブが隣接してあるのは軍隊の士気にも関わる問題となり、日清戦争勃発を期に、1894年(明治27年)には、当時の北東郊外であった宮町の東の蜂屋敷(旅籠町、新常盤町、常盤丁遊郭との俗称あり)に遊郭は移転した。蜂屋敷のほど近くには歩兵第四連隊(現・榴岡公園)、騎兵第二連隊(現・東華中学校)、練兵場(現宮城野原公園総合運動場および仙台貨物ターミナル駅)、飛行場(現・仙台医療センター)、台原陸軍射撃場(仙台台原小銃射撃場。旧宮城県警察学校から台原小学校にかけて)などの軍の施設がつくられ、遊郭は戦後まで続いた。なお、蜂屋敷の遊郭が廃止された戦後の仙台では、旅館街・屋台街でもあった仙台駅北のX橋周辺に風俗街、いわゆる私娼窟的なものがあった。
必然と、長年に渡り軍人さん達相手の商売、生業で生計を立てる人々が多く集まり、終戦後は特に人種の坩堝と化し、混沌と熱気が入り混じる街となっていった。
このことは、仙台発のハードボイルド小説作家、高城高氏の「X橋付近」や、熊谷達也氏『いつかX橋で』の中に生き生きと描写されている。

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1997年頃 二十人町側 【名掛丁の東端】側から西X橋を望む
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2006年頃 二十人町側 【名掛丁の東端】側から西X橋を望む
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1970年頃 X橋の上より名掛丁 二十人町側へ望む
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by crosby2 | 2011-03-01 21:50 | 散文
Bruichladdichと渦巻き状の雲

昨日ホテルモントレー仙台にてBruichladdichの試飲会があった。
親子三代に渡ってイギリスのアイラ島でスコッチの蒸溜に携わるという希有な職人、その本人談とともに六種類のBruichladdichを試飲した。国分の主催。国分は創業300周年になるらしいが、そちらも素晴らしい。祖父がラフロイグ、父がアードベッグで息子がブリックラディッの蒸溜に携わる親子三代の話や、アイラ島の自然の厳しさ、原材料にこだわる事、携わる人々の話、そして副材料とも言えるバーボン樽、グランクリュクラスのワイン樽、マデラやポートの樽。蒸溜所のたどって来た歴史をふまえてのお話は大変興味深かった。大変オイリーな蒸留したての原酒、ロックで呑む為のロックス、アイラ島に迫る大きな波を彷彿とさせるウエーブ。まさしくアイラ島のピートの香り立つピート。そして新発売の15年。これは甘くて美味い。植物学者(ボタニスト)と言う名のアイラ原産の20種類以上のハーブを用いたドライジンは爽やかなれど芯が有る感じ。
平日の午後でなければマジ呑みしたい所だが、そこはぐっとこらえて。アロマ主体の試飲にとどめて。大変有意義な時間だった事は言うまでもないが、Bruichladdichをお勧めする時の指標となった事は良い知層となった。
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渦巻き状の雲
昨日来のニュージーランド、クライストチャーチを襲った地震被害。心痛む映像が画面から流れて、在留邦人の救出もままならない状況が、その心痛に拍車をかける。ご親族のご心痛はいかばかりか。
そんな本日のお昼頃、仙台上空、中心部に渦巻き状の雲が出現したのであわてて撮影した。初め見た時よりも渦巻き状は崩れて来てはいたが、なんか不思議な形状の雲だ。渦巻き状の杭(くい)とか、螺子(ねじ)と言った感じか。
地震雲だととは言わない。そうでない方が良いのだが、心配で撮影した。
被災された全ての方の救助がなされて、無事のご帰還が叶うよう、ただただ祈るばかりである。

新燃岳に向けたカゴ募金活動を今日、したばかり。
まさしく災害の星、地球。常に心しておかねばなるまい。
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by crosby2 | 2011-02-23 22:11 | 散文

未確認飛行物体

2010年7月20日夕方7時頃
Crosbyから西公園青葉山方面を撮影中
うーん
どう見ても未確認飛行物体

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by crosby2 | 2010-07-24 00:09 | 散文
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大相撲は伝統芸能のである。
いつの頃からか、強けりゃ良い、何をしても何でもありでも強けりゃ良い。
そういう風潮が跋扈して、あたかもアスリート然とした扱いをスポーツ誌やメディアが煽り、誰もがそれが当たり前と言う風に勘違いして、相撲の本来あるべき姿を我々は見失っては居ないだろうか。

延喜式の中で、詠われている様に 戦いと和睦 神事の象徴。
現在でも各地の神社仏閣で、奉納相撲が行われています。
かつては大名家で 朝廷で奉納相撲が行われて来た。

神社やお寺の境内でお祭りの催しの一環として、そして奉納 神事であった時代。
時の政権、地方の大名のお抱え相撲だった時代。
祭りや地域の芸能としての時代。
そしてなにより相撲は興行であった時代。

そんな時を経て、今の形になって来たのだ。

正しく日本の伝統芸能である大相撲。

国技とはなんぞや。相撲を国技としたい、相撲関係者が
国技館を作りその中で行われているから国技なのか。

そうではない筈。

スポーツなのか。お相撲さんはアスリートなのか。
私は違うと想う。

潔癖になりすぎた社会は生きづらい。
NHKが中継を行わない、ときた。
賜杯も他の表彰も無いときた。
名古屋場所も中止したらよいと言う意見があるらしい。
その周辺で生業を営んでいる多くの方々の努力と生活を無視した
そんな意見は、私には信じられない。
人には生活がある。何の落ち度も無い人々の生活があるのである。

相撲中継を楽しみにしている多くの方の信を問うた結果なのだろうか。NHK.。
日本以外でも多くの相撲ファンが居る。その方々から意見はお聞きしたのだろうか。
風潮に流されて、大事な物を見失っては居ないだろうか。
真面目にやっている多くの人々を無視するやり方は、やはり、違う気がする。

水清らかなる所 魚住まず。

無菌培養された寒天の上ではなく、人は生活を、雑菌の中で営んでいる。
だから、耐性が出来たり、免疫が出来たり 人は強くなる。

相撲は興行であり、伝統芸能である。
スポーツでも、お相撲さんはアスリートでもない。

相撲頑張れ!
太っちょガエル 負けるな 一介の浪士 是に有り。
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by crosby2 | 2010-07-07 00:57 | 散文

太宰治 富嶽百景を

故有って、太宰治の富嶽百景を読んだ。
太宰を読むのは多分何十年ぶりでか。放蕩と自虐を繰り返す太宰は自分に当てはめてしまう帰来が有り遠ざけていた。
彼の仙台の球団の名称のキャッチフフレーズ 月見草 云々の由来の『富士には月見草がよく似合う』とうい言葉が出てくる一文である。昭和の13〜14年頃の作らしい。

この一文は太宰の当時の深層心理を強く表わしている一文である、と私は感じます。
それは「矜持」きょうじ と「鬱屈」うっくつ という言葉で言い表すのが良いかどうかは分からぬが、そう感じるのだ。「矜持」とは自分の能力を信じて持つ誇りのことであり、「鬱屈」とは気のふさぐことです。
彼の生涯は、この繰り返しだったのではなかろうか。
翻弄し翻弄され 自我を失い 自虐し 友や親族に助けられてはまた道ずれにするその行動は、男として 人として 家族として 親族として 立場が違えば評価もまちまちだろ。

太宰は、富士山麓の自然と人々との付き合い 出会いの中で、自分自身と対話し、生きる自信を回復して行ったのか。純粋に生きることを考え、貫き通そうとし、結局情死した太宰にとって「富嶽百景の地」は、理想に近い一番の場所だったのかもしない。
大きな富士に対した月見草
理念や倫理が富士ならば それらに対峙する太宰自身は月見草
万人が認める富士が権威や権力の象徴ならその片隅で咲く花月見草は太宰自身の分身であろう。
彼はこうも想うのです。
「私には、誇るべき何もない。学問もない。才能もない。肉体もよごれて、心も貧しい。けれども、苦悩だけは、先生と呼ばれていいくらい経てきた。たったそれだけ。藁一すじの自負である。けれど、私は、この自負だけは、はっきり持っていたいと思っている。わがままな駄々っ子のように言われてきた私の、裏の苦悩を、一体幾人知っているだろう」。と。

新しいものにチャレンジする時、自分を見失いそうになった時、太宰の言う「藁一筋の自負」を大切にしようとも感じます。

藁一筋の自負
新たなるステージに昇る多くの方へ
この言葉を贈りたい。
努力した事 続けた事 やり抜いた事 苦労した事 そこから生まれるそんな自負が有れば
藁一筋の自負が有れば やりきれます。そして何度でも トライアンドエラーが出来るのですから。
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by crosby2 | 2010-03-31 22:19 | 散文
今日は年度末 3月31日です。
去る人あらば、来る人あり。
寂しさ 悲しさも有れば、新たな期待も膨らみます。
まさしく
人間万事塞翁が馬(じんかんばんじさいおうがうま)ですね。

この言葉は淮南子(えなんじ)に記された故事に由来する物です。
この淮南子(えなんじ)は早くに日本に渡来したらしく 日本書紀にその中の何節かが引用されているので、思想の書としては日本の今に至る思想確立の根幹に影響を及ぼしたと想われます。

人間万事の意味は
 中国の北の方に占いの上手な老人が住んでいました。さらに北には胡(こ)という異民族が住んでおり、国境には城塞がありました。
ある時どういうわけか、その老人の馬が北の胡の国のほうに逃げていってしまいました。この辺の北の地方の馬は良い馬が多く、高く売れるので近所の人々は気の毒がって老人をなぐさめに行きました。ところが老人は残念がっている様子もなく言いました。

「このことが幸福にならないとも限らないよ。」

 そしてしばらく経ったある日、逃げ出した馬が胡の良い馬をたくさんつれて帰ってきました。そこで近所の人たちがお祝いを言いに行くと、老人は首を振って言いました。

「このことが禍(わざわい)にならないとも限らないよ。」

 しばらくすると、老人の息子がその馬から落ちて足の骨を折ってしまいました。近所の人たちがかわいそうに思ってなぐさめに行くと、老人は平然と言いました。

「このことが幸福にならないとも限らないよ。」

 1年が経ったころ胡の人たちが城塞に攻め入ってきました。城塞近くの若者はすべて戦いに行きました。そして、何とか胡人から守ることができましたが、その多くは戦いで死んでしまいました。しかし、老人の息子は足を負傷していたので、戦いに行かずに済み、無事でした。

 この話は、中国の古い書物「淮南子(えなんじ)」に書かれています。

 「人間万事塞翁が馬」の「人間(じんかん)」とは日本で言う人間(にんげん)の事ではなく、世間(せけん)という意味です。「塞翁」というのは、城塞に住んでいる「翁(おきな)=老人」という意味です。総合すると、「城塞に住む老人の馬がもたらした運命は、福から禍へ、また禍から福へと人生に変化をもたらした。まったく禍福というのは予測できないものである。」という事です。



淮南子(えなんじ)は前漢の武帝の頃、淮南王劉安(紀元前179年-紀元前122年)が学者を集めて編纂させた思想書。日本へはかなり古い時代から入ったため、漢音の「わいなんし」ではなく、呉音で「えなんじ」と読むのが一般的である。『淮南鴻烈』(わいなんこうれつ)ともいう。劉安・蘇非・李尚・伍被らが著作した。
10部21篇。『漢書』芸文志には「内二十一篇、外三十三篇」とあるが、「内二十一篇」しか伝わっていない。道家思想を中心に儒家・法家・陰陽家の思想を交えて書かれており、一般的には雑家の書に分類されている。

日本の正史とされた神話の『日本書紀』の冒頭「古(いにしえ)に天地未だ剖(わか)れず、陰陽分れざりしとき……」の典拠となった。

八紘一宇の由来。『日本書紀』神武天皇のことば「掩八紘而爲宇」に「九州外有八澤 方千里 八澤之外 有八紘 亦方千里 蓋八索也 一六合而光宅者 并有天下而一家也」が引用された。
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by crosby2 | 2010-03-31 21:39 | 散文

仙台が舞台の映画

近頃仙台を舞台とした映画が数本公開されてます。
どれも今の仙台を切り取り、数十年後に見たら懐かしく想うんでしょうね。
仙台が舞台といえば、40年くらい前の日曜映画劇場で小林旭さんの映画が放映されたのを強く印象に残しています。昔の仙台がそこにはありました。
昭和36〜7年の仙台や松島や、あの当時の最高の役者陣が登場します。
なんか懐かしく、もう一度見ようかと想います。レンタルビデオがあるでしょうか?
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惜別の歌
映画『惜別の歌』
みちのく仙台と松嶋が舞台
昭和37年に公開された日活映画「惜別の歌」あにころは無国籍アクション映画として人気の高かった「渡り鳥シリーズ」や「流れ者シリーズ」が終焉を向かえ、アキラ映画の転換期でもあったように思います。そんな時代にマイトガイの流行歌は絶好調で、「さすらい」「黒い傷あとのブルース」「北帰行」「惜別の歌」のメロディーがラジオや街角に流れていました。これらの作品はパンチの効いた一連のアキラ節でもある「俗謡シリーズ」とは異なり、センチメンタルな郷愁を思い起こさせるナイスな歌でした。そんな中で「惜別の歌」はもともとは「北帰行」のB面として発売されたものでしたが、仙台城跡からは当時の仙台の町並みがぼんやりと映っています。
又、旧仙台駅や駅前の青葉通りらしき街並みも、現在の仙台駅や駅前通りからは想像できない時代の流れを感じさせ懐かしく映っています。一方、日本三景・松島湾近辺を田代みどりさん扮するガイドさんが遊覧船やバスで紹介するシーンは今も昔も変わらぬ松島の良さを感じさせます。
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小林旭さんが歌うテーマ曲は
『惜別の歌』
   作詞 島崎 藤村
   作曲 藤江 英輔

遠き別れに 耐えかねて
この高殿に 登るかな
悲しむなかれ 我が友よ
旅の衣を ととのえよ

別れと言えば 昔より
この人の世の 常なるを
流るる水を 眺むれば
夢はずかしき 涙かな

君がさやけき 目の色も
君くれないの くちびるも
君がみどりの 黒髪も
またいつか見ん この別れ

君がやさしき なぐさめも
君が楽しき 歌声も
君が心の 琴の音も
またいつか聞かん この別れ

元は「高楼(たかどの)」という題で、嫁に行く姉を妹が見送る内容でした。
昭和19年、中央大学予科生の藤江英輔によって省略・変更の上、友を戦場に見送る歌として作曲されました。
その頃藤江英輔は東京板橋の陸軍造兵廠に動員されていました。学校は閉鎖され、毎日赤紙が届き友人が次々に戦場に召集される、明日は我が身という状況です。
藤江英輔は、藤村の「高楼」を元に、友人を戦場に見送る惜別の歌として改作し、曲をつけます。
藤村の詩では「悲しむなかれ 我が姉よ」だったのを「悲しむなかれ我が友よ」と変更してます。
また、元は姉と妹の対話形式だったのが、姉の言葉にあたる部分はバッサリ削られています。
曲は軍需工場の動員学徒たちの間に広がり、皆が口ずさむようになります。
この形で広く歌われだしたため、昭和35年藤村の遺族から改作の許可を得ました。
中央大学の学生歌となっています。

この映画は
黒い傷あとのブルース(1961 野村孝)」「北帰行より 渡り鳥北へ帰る」「さすらい」に続く小林旭のヒットソングの映画化第四弾。「抜き射ち風来坊」の山崎巌と山野良夫が共同で脚本を執筆、「さすらい」の野口博志が監督したアクションもの。撮影は「兄貴」の永塚一栄。
あらすじ
三崎明は、傷心の思いで故郷の仙台へと帰って来た。少し前まで彼は東京の緑川高校で体操教師をしていたが、ある日町のチンピラと喧嘩したことからPTAの逆鱗にふれ、生徒に惜しまれながらも学校を去ったのだった。彼は、昔恩になった神戸組を訪れたが、神戸組は今は親分も亡く、未亡人を助けるのは常次郎一人というさびれ方だった。乾分の一人兵頭が組を裏切り、仙台の大部分を縄張りにしていたのだ。三崎は、兵頭に怒りを感じながらもヤクザになることに踏み切れず、ぶらぶらしていた。そんなある日、親分の三回忌がやって来た。そこで三崎と出逢った兵頭は、三崎を警戒しはじめた。兵頭は神戸組をたたきつぶすことを決心し、神戸組の最後のショバであるさくらマーケットの乗取りを始めた。あばれ込んだ兵頭の乾分はマーケットで荒れ狂い、ついに常次郎まで殺してしまった。それを知った三崎はついに起ち上った。教師の自分を振り払い、ヤクザになった三崎の様子は一変した。その変りように神戸一家は大喜びだった。一方、三崎に思いをよせはじめた兵頭の娘美那子は、父と三崎と二人の間に事が起こるのを悲しむのだった。マーケット乗取りに兵頭が使った金は百万と知った三崎は、それを賭博でかせごうと塩釜の賭場へと向った。だが運悪く手入れ、ようやく三崎は町へにげのびた。だが、手入れも兵頭が警察にさしたためと知った三崎の怒りは爆発し、彼はついに兵頭に殴り込みをかけた。一人で乗り込んだ三崎を囲む兵頭たち、やがて兵頭の拳銃が火をふいた。だが、一瞬早く、かけつけた三崎の乾分哲次の匕首が兵頭の背中にとんでいた。倒れる兵頭。翌日、親分の墓前に盃を返した三崎は、美那子への惜別の悲しみをこらえながら、立去るのだった。

作品情報 - 惜別の歌

製作年 : 1962年
製作国 : 日本
配給 : 日活

キャスト(役名) - 惜別の歌

小林旭 コバヤシアキラ (三崎明)
笹森礼子 ササモリレイコ (兵頭美那子)
白木マリ シラキマリ (加代)
田代みどり タシロミドリ (みどり)
金子信雄 カネコノブオ (兵頭)
「惜別の歌」キャスト一覧
スタッフ - 惜別の歌

監督
野口博志 ノグチヒロシ
脚本
山崎巌 ヤマザキガン
山野良夫 ヤマノヨシオ
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by crosby2 | 2010-03-14 22:14 | 散文

今日、3月3日は

今日、3月3日はCrosbyの開業記念の日です。
1992年のこの日、クロスビーは誕生致しました。
18年と言う歳月は短くもあり、長きにも渡る どちらの感慨もあります。良き音楽家と良きお客様に恵まれましたお陰であるとと感謝しております。

さて今年は坂本龍馬が大河ドラマ化されたり、歴女と呼ばれる面々が跋扈したりと何かと幕末がクローズアップされてますが、この日 1860年 今から150年前に大きな事変が起こった日でもあります。
私の本籍も水戸 水戸の地に在所した地方豪族 佐竹藩佐竹氏の支流として関わりのある地だけに、この日は幕末の動乱のターニングポイントとも言える日でありましたので別の意味でも感慨深い日でもあります。
そう桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)が勃発した日でもあります。
安政7年3月3日(1860年3月24日)、江戸城桜田門外(東京都千代田区)にて水戸藩の浪士らが大老・井伊直弼の行列を襲撃し暗殺した事件。

その後の彦根藩や井伊家 お供の方々の行方を想うに、テロとは、悲惨の連鎖の生みの親だなと、痛切に想うのでした。
襲撃した水戸藩脱藩浪士にしても然りです。家族や縁者、匿った人 関係者がとても悲惨な目に相ました。18人の志士達は多くが生き延びても自刃や斬首と憂き目に相ました。一人は21年間名を伏して生き延びました。もう一人はずいぶんと長生きしました。(元は神職で 逃亡後、菊池剛蔵と改名。維新後警視庁・水戸県警察本部勤務に勤務しました。1903年没。享年76 ものすごい因果ですね。テロの犯人で逃亡犯が水戸の県警本部勤務なのですから。
この時代はこんな事も数々あったと聞きます。

中東やイスラム圏内で起こる悲惨な状況を見る度毎に、この事を経て、明るい明日と未来が必ずや訪れてくれと、願わずには居れません。でなければ、テロリズムの因果応報は際限なく連鎖し和平なき永遠が続いてしまうやも知れません。


ひな祭りの歴史は古く、その起源は平安時代の中頃
この時代の人々は、3月の初めの巳の日に、上巳の節句といって子どもの無病息災を願ってお祓いをする「流し雛」という行事を行っていました。陰陽師(天文、地相、人間などの吉凶を占う人)をよんで、天地の神に祈り、食物を供え、ワラや紙で作った人形(ひとがた)に災いや凶事を託して川や海に流すのです。
ひな祭りの起源に沿えば、、、、
人形に凶事を託して川や海に流す。事が出来れば 本当に良いですね。
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by crosby2 | 2010-03-03 21:37 | 散文

2並びの日に

平成22年2月22日22時22分22秒
見事というほかない2並びの日!
駅では記念の入場券や切符を販売したり、猫の日らしく仙台の若林地区の猫神社や猫カフェが開設されたなどのニュースが報道されたりで、縁起が良いのかどうかは分かりませんが、なんとなく普段でも、時計がそう言うふうに並んだり、何でもそんな数字の連続性が現れたりすると、嬉しくなったり写メしたりと言うのは古今東西変わらないらしいですね。

そう言えば、平成元年1月11日午後11時11分11秒に確かに私の店(ここではなくて)でイヴェントが開催されて、大勢の政財界の方々が集まった記憶があります。もう20年以上経つんですね。仙台市が全国で11番目の政令指定都市に選ばれて、時の市長が1や11にまつわる関係の行事や記念日、因縁が数多く存在したために、この日に誕生日の記念を兼ねてパーティーを挙行しようと多くの仲間や関係者が参集したわけです。

実はこの方が居られ無かったら、現在の私 Crosbyも存在しないんですね。この方と奥様とその周辺の方々の御推挙でお店を開店することとなった訳です。本当に因縁です。ですからこんな数字が並ぶのを見るにつけ当時を思い出します。

少なくとも、今よりは、国分町も猥雑ではありましたが、賑やかでしたし。昔は良かった!では無く、なんか、感慨深いものがございます。あの日あの時を思い出すのは年齢のせい?でしょうかね。

全く因みになのですが、私の婚姻届けを役所に提出した日がやはり
平成2年2月22日でして、、、、別に偶然ですけど。

謎の多いあの聖徳太子の、(厩戸皇子と言う説もある)没した日らしいです。
622年2月22日、現在の法隆寺東院にあたる斑鳩(いかるが)宮で、厩戸(うまやどの)王子(謚号・聖徳太子)が没した。574年に豊日王子(謚号・用明天皇)を父に、穴穂部間人媛を皇后として生まれた聖徳太子は、日本史の登場人物ではとりわけ人気が高いが、その人物像には謎が多い。そもそも、日本で最初の歴史書「古事記」が完成したのは、太子の死後100年近くが経ってから。太子について書かれた本や絵巻も数多くあるが、さらに後の時代になってからのもので、伝説化・神話化された要素が多い。だから逆に、太子の業績とされているものはすべて蘇我氏の業績だったとか、戦争好きだったとか、母親とは不仲だったなどと推測をする研究者もいるし、実母と異母兄が再婚したことが原因でノイローゼになり湯治に行っていた、なんて話まである。
歴史書なんてのは戦勝者の側の良い部分のみが残ったわけですから、何とも言えませんが。
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by crosby2 | 2010-02-22 22:22 | 散文