仙台の人と街を応援する企業家組合


by crosby2
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太宰治 富嶽百景を

故有って、太宰治の富嶽百景を読んだ。
太宰を読むのは多分何十年ぶりでか。放蕩と自虐を繰り返す太宰は自分に当てはめてしまう帰来が有り遠ざけていた。
彼の仙台の球団の名称のキャッチフフレーズ 月見草 云々の由来の『富士には月見草がよく似合う』とうい言葉が出てくる一文である。昭和の13〜14年頃の作らしい。

この一文は太宰の当時の深層心理を強く表わしている一文である、と私は感じます。
それは「矜持」きょうじ と「鬱屈」うっくつ という言葉で言い表すのが良いかどうかは分からぬが、そう感じるのだ。「矜持」とは自分の能力を信じて持つ誇りのことであり、「鬱屈」とは気のふさぐことです。
彼の生涯は、この繰り返しだったのではなかろうか。
翻弄し翻弄され 自我を失い 自虐し 友や親族に助けられてはまた道ずれにするその行動は、男として 人として 家族として 親族として 立場が違えば評価もまちまちだろ。

太宰は、富士山麓の自然と人々との付き合い 出会いの中で、自分自身と対話し、生きる自信を回復して行ったのか。純粋に生きることを考え、貫き通そうとし、結局情死した太宰にとって「富嶽百景の地」は、理想に近い一番の場所だったのかもしない。
大きな富士に対した月見草
理念や倫理が富士ならば それらに対峙する太宰自身は月見草
万人が認める富士が権威や権力の象徴ならその片隅で咲く花月見草は太宰自身の分身であろう。
彼はこうも想うのです。
「私には、誇るべき何もない。学問もない。才能もない。肉体もよごれて、心も貧しい。けれども、苦悩だけは、先生と呼ばれていいくらい経てきた。たったそれだけ。藁一すじの自負である。けれど、私は、この自負だけは、はっきり持っていたいと思っている。わがままな駄々っ子のように言われてきた私の、裏の苦悩を、一体幾人知っているだろう」。と。

新しいものにチャレンジする時、自分を見失いそうになった時、太宰の言う「藁一筋の自負」を大切にしようとも感じます。

藁一筋の自負
新たなるステージに昇る多くの方へ
この言葉を贈りたい。
努力した事 続けた事 やり抜いた事 苦労した事 そこから生まれるそんな自負が有れば
藁一筋の自負が有れば やりきれます。そして何度でも トライアンドエラーが出来るのですから。
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by crosby2 | 2010-03-31 22:19 | 散文
今日は年度末 3月31日です。
去る人あらば、来る人あり。
寂しさ 悲しさも有れば、新たな期待も膨らみます。
まさしく
人間万事塞翁が馬(じんかんばんじさいおうがうま)ですね。

この言葉は淮南子(えなんじ)に記された故事に由来する物です。
この淮南子(えなんじ)は早くに日本に渡来したらしく 日本書紀にその中の何節かが引用されているので、思想の書としては日本の今に至る思想確立の根幹に影響を及ぼしたと想われます。

人間万事の意味は
 中国の北の方に占いの上手な老人が住んでいました。さらに北には胡(こ)という異民族が住んでおり、国境には城塞がありました。
ある時どういうわけか、その老人の馬が北の胡の国のほうに逃げていってしまいました。この辺の北の地方の馬は良い馬が多く、高く売れるので近所の人々は気の毒がって老人をなぐさめに行きました。ところが老人は残念がっている様子もなく言いました。

「このことが幸福にならないとも限らないよ。」

 そしてしばらく経ったある日、逃げ出した馬が胡の良い馬をたくさんつれて帰ってきました。そこで近所の人たちがお祝いを言いに行くと、老人は首を振って言いました。

「このことが禍(わざわい)にならないとも限らないよ。」

 しばらくすると、老人の息子がその馬から落ちて足の骨を折ってしまいました。近所の人たちがかわいそうに思ってなぐさめに行くと、老人は平然と言いました。

「このことが幸福にならないとも限らないよ。」

 1年が経ったころ胡の人たちが城塞に攻め入ってきました。城塞近くの若者はすべて戦いに行きました。そして、何とか胡人から守ることができましたが、その多くは戦いで死んでしまいました。しかし、老人の息子は足を負傷していたので、戦いに行かずに済み、無事でした。

 この話は、中国の古い書物「淮南子(えなんじ)」に書かれています。

 「人間万事塞翁が馬」の「人間(じんかん)」とは日本で言う人間(にんげん)の事ではなく、世間(せけん)という意味です。「塞翁」というのは、城塞に住んでいる「翁(おきな)=老人」という意味です。総合すると、「城塞に住む老人の馬がもたらした運命は、福から禍へ、また禍から福へと人生に変化をもたらした。まったく禍福というのは予測できないものである。」という事です。



淮南子(えなんじ)は前漢の武帝の頃、淮南王劉安(紀元前179年-紀元前122年)が学者を集めて編纂させた思想書。日本へはかなり古い時代から入ったため、漢音の「わいなんし」ではなく、呉音で「えなんじ」と読むのが一般的である。『淮南鴻烈』(わいなんこうれつ)ともいう。劉安・蘇非・李尚・伍被らが著作した。
10部21篇。『漢書』芸文志には「内二十一篇、外三十三篇」とあるが、「内二十一篇」しか伝わっていない。道家思想を中心に儒家・法家・陰陽家の思想を交えて書かれており、一般的には雑家の書に分類されている。

日本の正史とされた神話の『日本書紀』の冒頭「古(いにしえ)に天地未だ剖(わか)れず、陰陽分れざりしとき……」の典拠となった。

八紘一宇の由来。『日本書紀』神武天皇のことば「掩八紘而爲宇」に「九州外有八澤 方千里 八澤之外 有八紘 亦方千里 蓋八索也 一六合而光宅者 并有天下而一家也」が引用された。
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by crosby2 | 2010-03-31 21:39 | 散文
水曜日の演奏
ハモンド 大村武司さん
サックス 名雪祥代さん
ドラム  行方基朗さん


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by crosby2 | 2010-03-30 22:55 | 動画 演奏風景

Crosbyのカサブランカ

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お客様には色々なご指摘をお受けする。
そのひとつのこのクロスビーのカサブランカがある。
エレベーターを降りた瞬間にカサブランカの香りが満ちている、ともいわれる。
良きにつけ悪しきにつけ、この真っ白い色と香りがクロスビーのイメージの一つとなっている。とも。

カサブランカ(Lilium 'Casa Blanca')は、ユリの一品種。

原産地は北半球の日本を含む亜熱帯~亜寒帯である。ユリ属のうちヤマユリ、タモトユリなどを原種とするオリエンタルハイブリッドの一品種。開花時期は7~8月。1970年代にオランダで作出され、世界的なブームを呼んだ。純白の大輪の花を咲かせ「ユリの女王」と言われる。結婚式の際のブーケをはじめ、主に贈り物の花束として喜ばれる花である。名前はスペイン語で「白い家」を意味する[Casa Balanca]に由来。ハンフリー・ボガート、イングリッド・バーグマン主演の映画『カサブランカ』に由来するといっていいかもしれない。なおカサブランカはモロッコの都市の一つ。
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by crosby2 | 2010-03-27 23:18 | 写真等

仙台が舞台の映画

近頃仙台を舞台とした映画が数本公開されてます。
どれも今の仙台を切り取り、数十年後に見たら懐かしく想うんでしょうね。
仙台が舞台といえば、40年くらい前の日曜映画劇場で小林旭さんの映画が放映されたのを強く印象に残しています。昔の仙台がそこにはありました。
昭和36〜7年の仙台や松島や、あの当時の最高の役者陣が登場します。
なんか懐かしく、もう一度見ようかと想います。レンタルビデオがあるでしょうか?
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惜別の歌
映画『惜別の歌』
みちのく仙台と松嶋が舞台
昭和37年に公開された日活映画「惜別の歌」あにころは無国籍アクション映画として人気の高かった「渡り鳥シリーズ」や「流れ者シリーズ」が終焉を向かえ、アキラ映画の転換期でもあったように思います。そんな時代にマイトガイの流行歌は絶好調で、「さすらい」「黒い傷あとのブルース」「北帰行」「惜別の歌」のメロディーがラジオや街角に流れていました。これらの作品はパンチの効いた一連のアキラ節でもある「俗謡シリーズ」とは異なり、センチメンタルな郷愁を思い起こさせるナイスな歌でした。そんな中で「惜別の歌」はもともとは「北帰行」のB面として発売されたものでしたが、仙台城跡からは当時の仙台の町並みがぼんやりと映っています。
又、旧仙台駅や駅前の青葉通りらしき街並みも、現在の仙台駅や駅前通りからは想像できない時代の流れを感じさせ懐かしく映っています。一方、日本三景・松島湾近辺を田代みどりさん扮するガイドさんが遊覧船やバスで紹介するシーンは今も昔も変わらぬ松島の良さを感じさせます。
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小林旭さんが歌うテーマ曲は
『惜別の歌』
   作詞 島崎 藤村
   作曲 藤江 英輔

遠き別れに 耐えかねて
この高殿に 登るかな
悲しむなかれ 我が友よ
旅の衣を ととのえよ

別れと言えば 昔より
この人の世の 常なるを
流るる水を 眺むれば
夢はずかしき 涙かな

君がさやけき 目の色も
君くれないの くちびるも
君がみどりの 黒髪も
またいつか見ん この別れ

君がやさしき なぐさめも
君が楽しき 歌声も
君が心の 琴の音も
またいつか聞かん この別れ

元は「高楼(たかどの)」という題で、嫁に行く姉を妹が見送る内容でした。
昭和19年、中央大学予科生の藤江英輔によって省略・変更の上、友を戦場に見送る歌として作曲されました。
その頃藤江英輔は東京板橋の陸軍造兵廠に動員されていました。学校は閉鎖され、毎日赤紙が届き友人が次々に戦場に召集される、明日は我が身という状況です。
藤江英輔は、藤村の「高楼」を元に、友人を戦場に見送る惜別の歌として改作し、曲をつけます。
藤村の詩では「悲しむなかれ 我が姉よ」だったのを「悲しむなかれ我が友よ」と変更してます。
また、元は姉と妹の対話形式だったのが、姉の言葉にあたる部分はバッサリ削られています。
曲は軍需工場の動員学徒たちの間に広がり、皆が口ずさむようになります。
この形で広く歌われだしたため、昭和35年藤村の遺族から改作の許可を得ました。
中央大学の学生歌となっています。

この映画は
黒い傷あとのブルース(1961 野村孝)」「北帰行より 渡り鳥北へ帰る」「さすらい」に続く小林旭のヒットソングの映画化第四弾。「抜き射ち風来坊」の山崎巌と山野良夫が共同で脚本を執筆、「さすらい」の野口博志が監督したアクションもの。撮影は「兄貴」の永塚一栄。
あらすじ
三崎明は、傷心の思いで故郷の仙台へと帰って来た。少し前まで彼は東京の緑川高校で体操教師をしていたが、ある日町のチンピラと喧嘩したことからPTAの逆鱗にふれ、生徒に惜しまれながらも学校を去ったのだった。彼は、昔恩になった神戸組を訪れたが、神戸組は今は親分も亡く、未亡人を助けるのは常次郎一人というさびれ方だった。乾分の一人兵頭が組を裏切り、仙台の大部分を縄張りにしていたのだ。三崎は、兵頭に怒りを感じながらもヤクザになることに踏み切れず、ぶらぶらしていた。そんなある日、親分の三回忌がやって来た。そこで三崎と出逢った兵頭は、三崎を警戒しはじめた。兵頭は神戸組をたたきつぶすことを決心し、神戸組の最後のショバであるさくらマーケットの乗取りを始めた。あばれ込んだ兵頭の乾分はマーケットで荒れ狂い、ついに常次郎まで殺してしまった。それを知った三崎はついに起ち上った。教師の自分を振り払い、ヤクザになった三崎の様子は一変した。その変りように神戸一家は大喜びだった。一方、三崎に思いをよせはじめた兵頭の娘美那子は、父と三崎と二人の間に事が起こるのを悲しむのだった。マーケット乗取りに兵頭が使った金は百万と知った三崎は、それを賭博でかせごうと塩釜の賭場へと向った。だが運悪く手入れ、ようやく三崎は町へにげのびた。だが、手入れも兵頭が警察にさしたためと知った三崎の怒りは爆発し、彼はついに兵頭に殴り込みをかけた。一人で乗り込んだ三崎を囲む兵頭たち、やがて兵頭の拳銃が火をふいた。だが、一瞬早く、かけつけた三崎の乾分哲次の匕首が兵頭の背中にとんでいた。倒れる兵頭。翌日、親分の墓前に盃を返した三崎は、美那子への惜別の悲しみをこらえながら、立去るのだった。

作品情報 - 惜別の歌

製作年 : 1962年
製作国 : 日本
配給 : 日活

キャスト(役名) - 惜別の歌

小林旭 コバヤシアキラ (三崎明)
笹森礼子 ササモリレイコ (兵頭美那子)
白木マリ シラキマリ (加代)
田代みどり タシロミドリ (みどり)
金子信雄 カネコノブオ (兵頭)
「惜別の歌」キャスト一覧
スタッフ - 惜別の歌

監督
野口博志 ノグチヒロシ
脚本
山崎巌 ヤマザキガン
山野良夫 ヤマノヨシオ
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by crosby2 | 2010-03-14 22:14 | 散文

今日、3月3日は

今日、3月3日はCrosbyの開業記念の日です。
1992年のこの日、クロスビーは誕生致しました。
18年と言う歳月は短くもあり、長きにも渡る どちらの感慨もあります。良き音楽家と良きお客様に恵まれましたお陰であるとと感謝しております。

さて今年は坂本龍馬が大河ドラマ化されたり、歴女と呼ばれる面々が跋扈したりと何かと幕末がクローズアップされてますが、この日 1860年 今から150年前に大きな事変が起こった日でもあります。
私の本籍も水戸 水戸の地に在所した地方豪族 佐竹藩佐竹氏の支流として関わりのある地だけに、この日は幕末の動乱のターニングポイントとも言える日でありましたので別の意味でも感慨深い日でもあります。
そう桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)が勃発した日でもあります。
安政7年3月3日(1860年3月24日)、江戸城桜田門外(東京都千代田区)にて水戸藩の浪士らが大老・井伊直弼の行列を襲撃し暗殺した事件。

その後の彦根藩や井伊家 お供の方々の行方を想うに、テロとは、悲惨の連鎖の生みの親だなと、痛切に想うのでした。
襲撃した水戸藩脱藩浪士にしても然りです。家族や縁者、匿った人 関係者がとても悲惨な目に相ました。18人の志士達は多くが生き延びても自刃や斬首と憂き目に相ました。一人は21年間名を伏して生き延びました。もう一人はずいぶんと長生きしました。(元は神職で 逃亡後、菊池剛蔵と改名。維新後警視庁・水戸県警察本部勤務に勤務しました。1903年没。享年76 ものすごい因果ですね。テロの犯人で逃亡犯が水戸の県警本部勤務なのですから。
この時代はこんな事も数々あったと聞きます。

中東やイスラム圏内で起こる悲惨な状況を見る度毎に、この事を経て、明るい明日と未来が必ずや訪れてくれと、願わずには居れません。でなければ、テロリズムの因果応報は際限なく連鎖し和平なき永遠が続いてしまうやも知れません。


ひな祭りの歴史は古く、その起源は平安時代の中頃
この時代の人々は、3月の初めの巳の日に、上巳の節句といって子どもの無病息災を願ってお祓いをする「流し雛」という行事を行っていました。陰陽師(天文、地相、人間などの吉凶を占う人)をよんで、天地の神に祈り、食物を供え、ワラや紙で作った人形(ひとがた)に災いや凶事を託して川や海に流すのです。
ひな祭りの起源に沿えば、、、、
人形に凶事を託して川や海に流す。事が出来れば 本当に良いですね。
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by crosby2 | 2010-03-03 21:37 | 散文